筑前秋月和紙: 井上賢治 ~プリンタにも使える素朴な手作りの和紙を~

プリンタにも使える素朴な手作りの和紙を (1/3)

春の桜が有名な秋月で和紙作りをされている井上賢治さん。地元ならではの紙ということで葛による和紙やプリンタ対応の和紙作りなど様々な新しい試みをされています。明治維新前後の興味深いお話とあわせてご覧ください。 (平成23年1月17日)

秋月党の乱の後に和紙漉きへ

秋月和紙さんが一番最初に和紙作りを始めたのはいつぐらいなんですか?

うちは明治9年ぐらいですね。

それ以前は?

秋月藩の足軽やったですね。

それが明治維新以降、、、

ここで秋月党の乱というのがあってですね。政府の政策っちゅうか、あまりにも心もとないっちゅうか。武士の下級武士まで及んでいない、、生活がね。そういった政策が遅れているのでここで決起して、山口の前原党と一緒に江戸、東京まで行って物申そうと決起したわけですたい。

もともときっかけになったのは熊本の神風連の乱が起こったことが引き金にはなっちょるんですけど。それまではこう、みんな集まって、どげんかしようやって話をしよったわけですたいね。そうしたら熊本が決起するぞって話になって、おっしゃ!俺らも!っちゅう話で秋月藩から、、、秋月藩じゃないねもう藩はなくなっちょるけ。こっちから神風連に行って、2人か3人ぐい行ってから様子を見て、向こうの気合を見てこようって言うてから行ったらしくてね。そうしたら向こうは決起して。

ちょうどし始めたときだったから、勝ちよったんですよ。神風連がね。ところがあれ、一日で負けてしもうたもんね。で、負けたところは見てないんやけど、勝っちょるところしか見ないで、こっちも上がったちゅうことですぐ帰ってきてね。熊本立ったぞ!俺たちもやるぞやって挙兵したらしいんですよ。

そうしちょるうちに向こうはやられて、情報が小倉鎮台に行きよったみたいで。それとやっぱ密偵がおってからね、警察のね。もうすぐに秋月が挙兵しよるけんちゅうことで、軍隊が動きよったち。で、こっから出撃して豊後の豊津っちゅうところがあるっちゃけど。山向こうにね。そこ行ったところで乃木連隊に出くわしてね。遭えなく負けて帰ってきたと。うちはもう、参加しよったけん。明治政府から蚕をするか紙をするかちゅう話になってですね。それから、うちはそこで紙を選んだと。

それ以前の明治維新以前というのも、もともと紙漉きはこの地域は盛んだったんですか?

そうですね。ありましたね。黒田藩がですね、元結を作りよったけ。それで紙を奨励産業としてね、藩主が広めて。8代藩主の黒田長舒(ながのぶ)やけ、、いまから200年ちょっと前からですかね。一番盛んになり始めたところだと思います。それまでも、昔の記録を読みよったら、戦国時代ぐらいから紙漉きはチョコチョコありよったみたいですね。多くはなかったけど。

代々続いていて、それが黒田長舒のときにある程度固まった形で大きくなった。

はい。多分、藩が統制し始めたっちゃないでしょうかね。八女の方からも紙漉きの熟練者を呼んで、ここで教練したとか記録があるみたいなんで。

そうすると元々は、八女系統ということなんですか?

でしょうね。八女から流れてきた。。。流れてきているんじゃないかなと思います。技術的にはですね。

以前お話いをお聞かせいただいたときに「松尾」姓というのが、こちらに流れてきていたんじゃないかって。

そうですね。これもちょっと話を聞いたのが、紙をずっと調査している人が言いよったのが、松尾神社ちゅうのが佐賀にあるらしいんですよ。そこに、ここら辺で言う紙の神様がおると。八女の方も毎年、紙の神様んとこに佐賀に毎年行きよった。それが松尾神社て言うんで「松尾」姓が八女には一杯いるのは、そこの人たちが行ったんちゃねぇのかって。越前から来た日源さんが伝えたっちゅうけどもっと前から多分もっと前から伝わっているじゃろっちゅう。まぁ、仮説じゃないですかね、僕もハッキリとは聞いとらんけん、面白いけ、その神社に行ってみようかなと思うてます。

秋月和紙

全国的に見ても綺麗な水のところに和紙漉き屋さんがありますよね。

そうですね。まずやっぱり、原料と水とでしょうね。あんまり水が温んでもいかんけ、季節のある寒いとか暑いがある土地で山に囲まれて原料が豊富にあってちゅうところじゃないかな。それとやっぱり需要やけ。城下町の近辺とかですね。じゃないかなと思います。

それで言うと秋月藩の城下町だったというのが。

そうですね。やっぱり需要が高かったんじゃないですかね。やっぱり紙と木の町で頭には元結でクルクル巻いてですね。

いまも表の方に行くと古い町並みがすっと残って。

そうですね。

その分残っているけど、道が狭いからお客さんが一気に来ると困るという部分もあるのでしょうけど。

うん、ちょっとね。町並み保存ちゅうのを景観地区やから勝手に開発したりですね、家を改装したりていうのはできないんですよ。昔の面影ちゅうかですね、武家やったら武家の風合いちゅうか。商家やったら商家の風合いを残した家作りをねせないかんちゅう風になっちょるけ。見たら昔風の家ばっかりが目に付くんやないかなと思います。

それだけ雰囲気良いですよね。

そうですね。


紙漉き屋が20軒ぐらいあったときは、需要がとにかく多かった

秋月和紙さんの紙自体の特徴というとどういったところになるんですか?

しなやかで、強いちゅうのが特徴ですね。

しなやかというと?

硬い紙もあるんですけどしなりが良いというのと引きが強いのとですね。

それはやっぱり材料の方なんですかね?それとも作り方の方なんですかね?

いまはですね材料は山口の方から仕入れているんですよ。昔は20軒とか多かったときは、親父の時代はまだ一軒だけじゃなかったからですね。裏も隣も、この通り界隈がずっと紙屋さんの通りやったけん。地元のですね、楮を取る人たちがおってから、そこに集荷場があって、そこに近隣の紙漉き屋さんが集まって量り売りで持って行きよったけなです。そうしたら段々、紙漉き屋さんがおらんごなったから、地元の採ってくる人がおらんごなってですね。最初は熊本とかあっちのを使いよったけど、最終的に山口の徳地の楮を使うようになったですね。

そちらが手に入りやすいのと同時に品質も良いということで。

そうですね。

なるほど。あと特に、目の前に流れている川なんかも水が良いというのはすぐにわかりますものね。

うん、そうですね。それでも、うちは地下水を使うんですよ。川の水はどうしても…。結構ね、年寄りが多いけ。川は浄化するていうけん。すぐ、何でもかんでも流すんですよ(笑)

昔の風習ちゅうかね。じゃけ、ご飯は流れるは、とにかく残飯類が流れて来るしね。最近、洗剤とかが多くなっちょるけん。川の水はやっぱり使わないと。で、地下水を汲み上げてね、やってます。

その井戸の水も豊富にあるということなんですか?

そうですね。もう、昔からここは大水と大火事が多かったけんですね。そういう場所です。谷が三つぐらいあるけん。向こうの谷と真ん中とこっちの谷から川が流れて来よるけんね。水が集まりよるけん。ある意味じゃ水は豊富ですね。

秋月の風景

あと、煮熟は苛性ソーダをお使いなんですね。

そう。うちはやっぱり親父がひとりでしよるのと、目が不自由やけね。ほとんど視力ないんですよ。じゃけん、僕がおらんときは始めはしよったけど、ソーダ灰で炊いて。やっぱりどうしても、傷じゃないけどソーダ灰じゃ、チリ取りをしておかんといかんでしょ。

チリ取りが大変ですものね。

そうそう。じゃけん、苛性ソーダで丸々煮てね、しよった。人が何人もおればね。それに場所とかあったらそういう“たくり”から始めて、チリ取りもしてっちゅうこともできるやろうけど。

確かに親御さんの目が悪いとチリ取りは現実的に難しいですものね。ソーダ灰で使うのか、苛性ソーダを使うのか。結局のところ手間の部分でどう判断するのかが一番悩むところですからね。

やっぱり昔ながらの製法の方がね、紙は強いやろね、一番ね。

そうなんでしょうね。だけどそうも言っていられないですものね(笑)

そうそう。昔の製法が一番良い。やっぱり。1回板を作ってもらってね。イチョウの木で。そしたらやっぱりキレイやもん。やっぱりキレイ。剥がしたときもキレイやし、毛羽もそんなに立たんし。

木と一緒に乾いていくプロセスがね、やっぱり紙を良くするんやろうなぁと思うし。やっぱり、しなやかやけんね。

やっぱり微妙に収縮と膨らむのを繰り返しながら乾いていくからというのがあるらしいですね。

じゃけ、やっぱり良いんやろなと思うけど、これをしよったらまた時間が掛かるっちゃね。

時間が掛かるし、かと言って値段にそのまま乗せるわけにもいかないし。

昔はやっぱり、良かったやろうね。じーっと2~3日掛かっても文句を言われんし。そんなんで需要もあったんじゃろうと思うばってん。今はそうじゃないもんね。

それ以上に、安いもの安いものという形になってしまっているから。

ある程度良いものは、それなりにちゃんとした理由がある。それなりの値段がするんだよというのは、昔は結構みんなそれをわかっていたような気がするんですけれどね。

うん。と思うし、やっぱり昔のもんは需要が多かったけん。高くなかったちゃないですかね。

それもあるんでしょうね。

もうここは紙漉き屋が20軒ぐらいあったときは、やっぱり周りは木と紙の家だったけんね。ここはね。そういう時は、障子が破れればすぐに紙屋に行って買って来いて言うてたし。いまじゃ高級で使いきらんちゅうばってん。やっぱねぇ、需要がとにかく多かったですよ。その分、軒数は多いし安く手に入るっちゅう。