駿河柚野和紙:内藤恒雄 ~富士の麓で天日干し「和紙は、あくまで素材」~

富士の麓で天日干し「和紙は、あくまで素材」 (1/3)

富士山の麓で天日干しの和紙作りに勤しんでおられる内藤恒雄さん。和紙は、あくまで素材とのスタンスで絵画用の和紙についても、細かく要望に応えて和紙を漉いていらっしゃいます。  (取材日:平成23年2月2日)

うちは全部、板に張って天日干しなものですから。

内藤さんが一番最初、手仕事にご興味を持ったのはどういったことからだったんですか?

一番最初はね、東京の下町だったもので。上野の次の稲荷町だったもので。小さいときから職人さんが多かったもので。そういう手仕事の職人さんのお仕事にすごい憧れがあったんです。例えば、気に入らない仕事はいくら積まれてもやらないみたいな。その代わり気に入った仕事はとことんやるみたいな。

一番最初は池之端にある「十三や」のつげ櫛をやりたいなって思ったんですよね。でも母親から、お前目が悪いから難しいだろうって。あれは理想だったんですね。店舗兼作業場みたいな。やっていてお客さんが来れば対応するし。十三って九四からきているらしいですよね。櫛で九+四で「十三や」ということらしいです。それとすごく恵まれて育ったんで、御釈迦さんじゃないけど1回家を出たいというか。一番最初この手漉き和紙業界、埼玉の小川で他人の飯を食わせていただいたのは本当にありがたいことだったんですけど。

8時から5時は製紙試験場で技術的なことを色々と。そこは手漉きもあるし機械漉きもあったもので、機械漉きのコンビネーションマシーンの雑用もさせていただいて。その前後。試験場に行く前と試験場が終わってからの。そこでの雑用が勉強になりましたよね。俺、そういう下手間っていうのも好きだったんで。表面的なものというより、その前にある仕事っていうのも必ずあるわけで。そういうのが楽しいっていうかね。それは作り手の……。俺も掃除はしないけどきちんと片付けることはしますよ。

大学時代に海外に旅行されていたのが背景であるとお聞きしたことがあるようにも思ったのですけどそれも背景としてあったんですか?

例えば、ロンドンに2日でパリに3日っていたって意味がないと思うんです。最低でもその国に1ヶ月ぐらい。私はカナダに3ヶ月間位だったもので。それで内容がホームステイだったもので、バンクーバーからモントリオール、そしてモントリオールからバンクーバーへ戻ってくるって。それが大学4年のときかな。体験させていただいて。それで戻ってきて、ちょうど6月から9月までいて、10月に……。それ、いつも思うんだけどテレビ東京で「日本の巨匠」シリーズってやっていたんですね。ドキュメンタリーで。日曜の10時頃かな、30分の。人間国宝のドキュメンタリーがあって。

自分は気が早いもので、すぐにテレビ局に電話してディレクターに連絡したら、大学出たらそういう手仕事をやってみたいですって。そうしたら文化庁に行ってリストを貰ってきたからって。文化庁は虎ノ門ですから、自分は上野の次の稲荷町って所だったからすぐに。それで文化庁の勤務時間に行って。その担当者の方がお忙しかったのかな?夕方また新橋の喫茶店でお会いして、大学出たら手仕事を。手仕事でも自分の一生を賭けるわけだから10年先になくなってしまうような仕事では意味ないから、ある程度文化財指定になっているようなところ。それで新橋の喫茶店で重要無形文化財のリストを頂いたんですよね。それで一番新しいのが昭和44年ぐらいだったか手漉き和紙。安部栄四郎さんと先代の岩野市兵衛さん。それと石州半紙と美濃と。その時笑ったんだけれど、手漉き和紙って字自体が読めなくって(笑)ただ大学のときに書道部やっていたもので、紙に関しては馴染みがあったもので。普通の画仙紙には違和感があったんで、あの白い。そのときは認識なかったんですけど生成りみたいな、竹紙みたいな。

それで何しろ気が早いものですから、一番最初は安部栄四郎さんのところへ行って、石州へ行って久保田さんのところへ。それから岩野市兵衛さんのところへ行って。美濃はもう疲れたもんで、美濃の試験場の古田さんというところへ。

石州の久保田さんのところへ行ったら、お前は東京出身であれば一番近いのは埼玉の小川ってところに埼玉県立製紙試験場、今はもうなくなったんですけどそこで手漉き和紙講習の制度があるからって。それで小川にお邪魔して大学卒業したら勉強に来たいって言ったら、どうぞどうぞって。そこからが始まりでしたよね。埼玉、島根、岡山、3ヶ所6年勉強させていただいて、22歳で大学卒業してだから、28歳でここで独立したんですね。

内藤さんはお年からしてちょうど団塊のころだから、みなさん会社に就職っていうのがある程度あった中で手仕事を選んだというのは結構珍しいんじゃないです?

それはね、22歳ぐらいのときは定年ていうのはまだなかったんですよ。まだ40年先のことだから。実家は寺だったもので、だからお勤めって感覚はなかったんですよね。お寺さんも定年ない仕事だから。60歳になったからその仕事をやめちゃうていうみたいな。それもひとつの職人さんの仕事にあこがれた部分に入っていると思うんですよね。例えば80歳であってもお元気であれば、40歳代ぐらいの仕事はできない、肉体的にできないかもしれないけれど、その現場にいることによって生きることの生きがいていうんですかね。

職人さんは定年ないですからね。

自分も、いかに売っていくのかというのを考えているもんで、それだとボケないんじゃないかなって。一番は俺は美術作品を見ることが好きなもので、この仕事は素敵な美と出会うというのがすごく楽しみですね。

その修行のあとに、いまのお住まいの富士宮へいらしたんですね。

昨年(2010年)に合併して、それ以前は富士郡芝川町だったんですけど。来たときは富士郡芝川町だったんです。

工房から富士山を望む

そうなんですか。いまこちらの車のナンバーは「富士山」ですよね。

そうです。この地域だけね。

あのナンバーは羨ましいなって(笑)

あれはみんな、地域だけで。山梨も含んでいるみたいですよ。

そうなんですか。

珍しいみたいですよ。普通は県内だけみたいだけど、他県とまたがった形でその地域で取れるらしいですけどね。山梨県はどこだか俺は知らないけど。富士、富士宮……、あと御殿場とかもそうなのかなぁ。それまでは沼津だったんで。

そうですよね。少しずつ変わってきている時期らしいですよね。この富士山ナンバーは、これはどこかって一発でわかる(笑)

うちの売りも富士山で。うちは全部、板に張って天日干しなものですから。それこそ日本じゃ世界に、外国人でも見せれば富士山ってね言っていただくもので。

やっぱり、富士山の麓で天日干しって、すごくわかりやすいですよね。

それは絵柄として考えていたもので、街中というよりかは。だからこの建物も最初は合掌造りみたいなものにしようとしていたんですけれど。京都の大原とか白川郷・五箇山ありますよね。古い民家を移築みたいなことをしていたんですけれど。古い民家をいただくのはただかもしれないけど、移築費がものすごいかかるからって。それで諦めましたけど、形としては合掌造り風にね。本当はもっと屋根を上げていただいて中窓みたいなものを作りたかったんですけど。ちょっと滑らか過ぎてつまらない。だけど南から見ると北に富士山があるんで。

ちょうど南面した形で板干しもしやすいんですね。

そうですね。ただ山は女性なもんで、非常に恥ずかしがりや(笑)取材の方が来ると、シャイで曇ったりすることが多いですけど。