八尾和紙: 桂樹舎 ~全部手作りで一貫生産 ニーズに対して柔軟に対応できる~

八尾和紙: 桂樹舎 ~全部手作りで一貫生産 ニーズに対して柔軟に対応できる~ (3/3)

通常の和紙漉きだけでなく型染めや加工品も手がけている桂樹舎さん。和紙漉き元はどうしても和紙を漉くことだけに留まってしまうことが多いですが、桂樹舎さんの強みは、加工から全部手作りで一貫生産しているところ。「民藝」の芹沢銈介先生との関わりも含めお話をお伺いしました。

「民藝」 芹沢銈介先生との共同研究で型染めや加工品も

八尾和紙さんの歴史というのはどういった流れになっているんですか?やはり紙作りが先にあって、そのあとに型染めと色紙があったということなんですか?

色紙が最初なんだろうね。

そうなんですか。

結局、八尾の紙漉きというのは白いのも一杯漉いていたみたいなんだけれど売薬さんに流れていたわけじゃないですか。

もともとこちら富山の和紙を作っているところというのは、富山の薬売りの、、、

そう。八尾の場合はそう。

その薬を包む紙ということで型染めなんかもあったんですか?

ううん。型染めなんかない。その時は。

そうなんですか。

それは江戸時代前からだから。八尾の和紙の歴史というのは結構古いんですよ。室町時代とかに京都に紙を納めていたわけよ。その頃から紙漉きというのはあったわけ。1500年代ですよ。で、その前から……。その前はわからないなぁ。正倉院には越中の和紙・何枚と納められたという書類が残っているのだけれど、一体どこで漉かれたのかというのはわかっていないわけ。八尾かもしれないし、他のところかもしれないしわからないんだけれど。八尾の和紙漉きがあったのが文献で残っているのは1500何年だったかな?古文書に残っているわけ。で、それがほとんど京都の方へ行っていたわけですよ。

そうすると一番最初の頃というのは、正倉院の頃に記録が残されていたんだけれど、それ以降、空白の期間みたいになってしまっていたのですよね。記録としては空白だったけれども、表舞台に出てきて盛んになったのが江戸時代ということなんですか?

江戸時代の元禄ですね。その元禄時代になって前田正甫(まえだまさとし)公がお殿様になって、富山の薬というのが山野草が沢山あるものだから。それで薬を考えた。

そう、なんですね。こちらは山野草。立山などの山岳の薬草が採れるということで薬がこれだけ広まった。

薬草が沢山あるわけ。それも八尾にあるわけ。八尾の奥にあるわけ。その薬草で薬を作って、それを包む紙とか、ああいうものをどこにするのかということで、八尾で紙を漉いているから八尾でやりましょうと。そういうことになったんだと思いますよ。同じ八尾だからやれば良いと。そこでどんどん薬を包む紙ができるようになった。それで八尾の紙が盛んになってきたわけ。

それから明治時代に入って洋紙が入ってきた。そうすると丸薬さんも和紙を使わなくて洋紙のほうに転換していった。そうすると作っても売り先がないわけですよ。で、一軒減り、二軒減りとなって、昭和10年代には無くなってしまって。

その頃うちの親父が……、何年ごろかな?若いときに東京に行っていて体を壊して帰ってきて。それで療養をしている頃、和紙というのはもう斜陽産業だったわけ。それで県の方が何とかしなけりゃいけないってことで、八尾町に富山県製紙指導所というのができたの。それで結局、紙に携わる人を募集したわけよね。その頃、親父が体の調子が良くなくて暇なものだから、じゃあやってみようか、て言ったわけですよ。それがきっかけで紙の世界に入ったんだけれど。

その頃からいろいろな紙、草木染をやったり、いろいろな染め紙をやってみたりとかやったらしくて。その後、戦争に行って。戦争の頃は軍事用の紙しか漉けないからね。戦争が終わって昭和21年に自分で独立して会社を立ち上げたんです。それは“越中紙社”という会社で。主に色紙とか、葉書とか。書画の紙は当然漉くのだけれども。それを京都とか東京に持って歩くんだけど中々最初は売れないわけ。売れないんだけど、河出書房とかが初めて和紙を取り扱っていただいて。本の見返しとかなんかに使ってくれたわけ。それから段々いろいろなところがあって、和紙を使ってくれるようになった。

その頃、民芸のものも好きだから東京に行ったら行ったで、民芸の展覧会とか見たりするわけじゃない。で、そんなときに柳宗悦(やなぎむねよし)先生の「和紙の美」という本を読んだわけ。そうしたら感動して柳宗悦先生の門を叩いたと。そこから民芸との繋がりが出てきた。

そうしているうちに芹沢銈介(せりざわけいすけ)先生とも知り合いになった。芹沢先生は戦後、最初は布の型染めに専念していたわけ。戦後中々手に入らない。じゃあ、とうするかということで、和紙に染めてみようかと。

そのときはね、埼玉県の小川和紙の紙かなんか。型染めというのは最後に水の中に漬けなきゃいけない。そうすると和紙は丈夫と言いながら、一枚一枚入れるとやっぱり溶けたりするわけですよ。じゃあ溶けないような紙にはどうするかとか。まぁ、問題が出てくるわけね。そうすると親父と芹沢先生が話をするわけですよ。うちの親父も、じゃあ研究してみましょうと。研究してやっと上手く行ったと。そうしてうちの紙に段々と移ってくるわけ。

じゃあ、最初はどちらかというと小川和紙さんが使われていてけれども、それをもっと研究開発を一緒に行きましょうという形でやっていって、それが成果として出てきた。それが成果として出てきたから八尾和紙さんに移っていったと。

だと思いますよ。で、芹沢先生が和紙の作品というのは随分沢山やったらしいけど、全部ではないけど7~8割は八尾の紙で作ったらしい。

喫茶室

それが一番最初の始まりだった。

そうしているうちに最初は紙を納めるだけだった。それで行き来しているうちに八尾でも型染めというのをやってみないかという話になってきて。じゃあ、やりましょうと。それでやりだした。それで上手く行って。

それがいまこうやって和紙を実際に漉いて、色紙もできるし、型染めもできるし。そして最終的な加工品もできるし。その土壌が出てきたと。

そうそう。

そこから先代の社長さんからの繋がりがずっとあるんですね。

やはり、そのときに研究を一緒にやっていったというのが一番大きかったのでしょうね。

大きいでしょうね。

やっているときは、お互いに頭を悩ましながらも楽しかったでしょうね。

それで民芸との人の繋がりなんでしょうね。

入り口のところのガラスケースのところに「民藝」の冊子が置いてありますものね。

ああ、冊子がね。

ああ、やっぱりこれが八尾和紙さんのポイントになっているからなんだろうなって。

そういうことですね。


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